4年前。

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 2011年3月11日は、恵比寿と広尾の中間くらいにあるマンションの4階に住んでいて、23日に那須塩原に引っ越すのが決まっていたものの、引っ越し準備もまだほとんどしてなかった。いつものように部屋着で仕事してたら、ものすごい縦揺れに襲われて、とりあえずスピーカーを両手でガシっと押さえて何とか揺れが収るのを待った。多少収まったかなというところで急いでリビングに猫の様子を見にいって抱きかかえたところで第2波。とにかく猫をなだめるのに必死だったように思う。すぐに実家に電話して安否確認をしたら、もうそこから電話が繋がらなくなってしまったので、テレビのニュースをリアルタイムに見つつ、電話もメールもSMSも出来ない中で、唯一動いていたネット回線(USENの回線)のTwitterで流れてくるTLで友達の安否も確認。テレビでのリアルタイムで飲み込まれていく津波の映像を呆然としながら見るしかない中で、余震は続くもTwitterから流れてくる情報で何とか安心していた。その後も余震は何度も続いて夕方になって、とりあえずコンビニで食べ物を確保しようとしたら、まだ少量残っていたので、必要な分だけ何とか買い込んで、家に戻る。この時点では、まさか、数日近所から食べ物が消えるとは夢にも思っていなかったけど、電車が止まってる中での帰宅困難者は、恵比寿2丁目のうちの前の通りにも、明治通りにも人が溢れかえっていて。

 当時のTwitterを見ると…。

 11日のツイートはこれだけ。12日になってからも。

 どうやらこの程度しかツイートしてないらしい。写真もまったく撮ってない。それだけ余裕が無かったんだろうと思う。さらに原発。なんて時に、那須塩原に帰るんだろうと思った。宅急便は数日後にまともに動くようになったけど、東京からはカップ麺が消えた。調理する食材なら手に入ったけど、余震に襲われつつガスを使わないといけないのが怖かった。そんな中で、1箱づつ引っ越しの荷物を作る。でも、引っ越し便も動いてなかった。確認すると、予定日に動くかどうかわかりません…とも言われた。「これは引っ越すなって事?」と思っていたけど、引っ越し予定日の2日前に引越し便も平常運転になった。荷物も何とか送り出し、那須塩原へ新幹線で向かった。そこかしこで塀が崩れ、屋根が落ち、石碑が砕けていた。東京よりさらに余震が多かった。揺れるたびに腹筋に力を入れた。何てところに来ちゃったんだろうなぁと本気で思った。めまぐるしい3月だった。

 そんな4年後の今、再び東京にいられる事の幸せを噛み締めているけど、地震への備えは怠らないようにしたい。


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